前回の2017年本編に引き続き、「ふるさと只見の集い」で共有された八十里に関わる情報をお届けします。
【今回のアトラクションの一つ、「八十里越馬子唄」のCD鑑賞について】
以下、「ふるさと只見会 2017」配布資料及び八十里越馬子唄CDより説明・歌詞
八十里を越えた馬子が唄っていたという八十里馬子唄。馬子唄があったということはわかっていましたが、節も歌詞も長い間忘れ去られていました。しかし、新潟県下田村(現三条市)にテープが残されていることがわかり、新たに採譜、補作詞、編曲して八十里越馬子唄がつくられました。昨年(2016年)、只見町で八十里越馬子唄の発表会がありました。奥会津と越後を結ぶ峠の生きた歴史として、長く伝えていきたいものです。
八十里越馬子唄 唄:只見民謡会 横山博己
一 百に足りない エー 八十里峠ヨー
馬の手綱で 日を暮らすよ
二 朝ははよ出て エー 峠を越えてヨー
八木沢おかねの 顔見たや
三 朝のまぐさを エー やる手を休めヨー
今日はどの娘を 連れて越す
四 八十里越えれば エー 木の根が枕ヨー
落ちる木の葉が 夜具布団
五 越後ぶどう山 エー 伊達には越さぬヨー
可愛い姉さま あればこそ
六 ブナの横手は エー 馬でも越すがヨー
小松横手は ままならぬ
七 お前来てみろ エー 会津の山にヨー
雪が降ります はよ三度
以下、「ふるさと只見会 2017」配布資料より
【八十里越を開いた平岡文次郎について】
八十里越を馬が通れるようになったのは天保14年(1843)です。田島の代官平岡文次郎が南山御蔵入の農民の請願を取り上げ、農民に一切負担させず、越後の商人から1200両の寄付を集めて完成させました。
完成後、最初に、越後から奥会津に10頭の馬によって運ばれたのが塩でした。救荒対策としてじゃがいもの栽培を奨励したのも平岡文次郎です。
平岡文次郎が田島代官を辞めることになった時、南山御蔵入の農民代表が二度も江戸に登り、勘定奉行所に平岡代官の留任を訴えています。平岡文次郎がいかに農民に慕われていたかわかるエピソードです。
平岡文次郎の息子が、最後の将軍徳川慶喜の側近として幕末に活躍した平岡円四郎です。幕吏に追われていた渋沢栄一を助け、慶喜の家臣に取り立てたのが平岡円四郎です。明治になり渋沢栄一は数々の企業を興し、日本資本主義の父といわれました。埼玉県で最も有名な偉人が渋沢栄一(深谷市出身)です。
以下、平成29年度「ふるさと只見の集い」次第より抜粋
日時:平成29年12月10日
場所:主婦会館プラザエフ
アトラクション:
「八十里越馬子唄」只見民謡会 横山博己唄CD
「只見川」昭和29, 30年撮影の電力開発の記録映画DVD
ふるさと只見会 2013
ふるさと只見会 2014
ふるさと只見会 2015
ふるさと只見会 2016
ふるさと只見会 2017 八十里越について
ふるさと只見会 2017 本編
ふるさと只見会 2018
ふるさと只見会 2019
ふるさと只見会 シリーズ
ふるさと只見会 2013
ふるさと只見会 2014
ふるさと只見会 2015
ふるさと只見会 2016
ふるさと只見会 2017 本編
ふるさと只見会 2017 八十里越について
ふるさと只見会 2018
ふるさと只見会 2019
主に首都圏などにお住いの只見町に所縁のある方が参加される、年に一度の「ふるさと只見会」の会合「ふるさと只見の集い」の本編のお話です。