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只見を巡る旅 202208  只見町河井継之助記念館

色々な施設も回ってきたので、巡る旅としてお送りします。

今回は、2022/7/1〜11/20まで開催中の、只見町河井継之助記念館 開館50周年企画展「峠 最後のサムライ」を中心に。

会津塩沢駅周辺散策 第八只見川橋梁と蒲生岳 & 会津塩沢駅と蒲生岳

散策と言いながら、第八只見川橋梁は助手席の車窓から失礼しております。

只見町河井継之助記念館

記念館前に広い駐車場もできました。

今回の目的は、只見町河井継之助記念館 開館50周年企画展「峠 最後のサムライ」の特設展示。期間は2022/7/1〜11/20で、現在開催中です。

ガイドさんによる館内ツアーもされていましたが、ここは何度も訪れているので、個人的に見たいところ中心に一通りまわってきました。

入館料 大人350円、木曜、荒天日&冬季(11月中旬 ~ 4月下旬)休館、開館時間10:00〜16:00。写真&SNS等アップokとのことです。

詳しくは只見町河井継之助記念館HP

只見町河井継之助記念館について 開館50周年

そう、開館50周年。長岡市の越後長岡 河井継之助記念館よりも歴史が古いのです。

只見線全線開通の1971年(昭和46年)頃は、新潟に抜ける鉄路が出来るということで、町の開発に力を入れていた時期で、町内に連続して様々な施設が建てられ、1973年(昭和48年)に開館となった河井継之助記念館もその一つのようです。

現在は河井継之助記念館の敷地内にある山塩資料館の建物が、初代河井継之助記念館として使用されていました。あまり資料もなかった当時は、長岡や会津若松の人たちや、医王寺などから、河井継之助ゆかりのものや、その時代のものを、借りたり買ったり複製させてもらったりしながら集め、入れ替えながら展示していたそうです。

その初代河井継之助記念館の頃、一番の目玉となったのが、現在の河井継之助記念館でも引き続き2階に展示されている、河井継之助の衣装と人形で、衣装は、昭和52年のNHK大河ドラマ「花神」で、高橋英樹が実際に着用したものだそうです。

只見町河井継之助記念館 新館

1993年(平成5年)に、現在の場所に河井継之助記念館が新築された際に「河井継之助終焉の間」が館内に移築されました。長岡市の郷土史家、故 稲川明雄さんに館内の構成などをご指導をいただきながら、完成となったそうです。

その際、展示物を移動したため空になった記念館の建物には、近くの塩竈神社の中にあった資料などを移し、製塩記念館を開館、現在の山塩資料館となっています。

その後、2006年(平成18年)には、長岡にも河井継之助記念館が開館し、稲川さんが初代館長を務められました。

只見町河井継之助記念館 河井継之助終焉の間

河井継之助が息を引き取った医師矢沢家の当時の家は、1962年(昭和37年)、滝ダム建設で水没するまで残っていました。ダム建設に伴う移転の際、家の一部であったこの終焉の間は、矢沢家により屋根ごと山側に移築され、その尽力のおかげで、遺品とともに当時のまま保存されることになりました。

塩沢川橋梁近く、記念館から河井継之助のお墓のある医王寺へ向かう途中で、道がカーブしている部分がありますが、その下の方に終焉の家があったそうで、移転後の終焉の間は、現在の河井継之助記念館の裏手あたりに移されていたそうです。

昔の座敷の造りなので、実際に河井継之助が療養していた奥の間まで入れるとかなり大きな印象です。茅葺き屋根で保存も大変だったことでしょう。写真で見る矢沢家の家の、左側の屋根が斜めにできている部分が終焉の間にあたるそうで、当時かなり大きなお家だったことが伺えます。

只見町河井継之助記念館 「峠 最後のサムライ」コーナー

今回の目的ポイント。皆さんが現地で楽しめるよう、読めない程度に載せておきます。

延期に延期に延期を重ね、ついに公開に至ることになった経緯と喜びが、ひしひしと伝わってくる、そして見ていると、じわじわ来るコーナーです。ご来館の際には是非お見逃しなく。

只見町河井継之助記念館 「峠 最後のサムライ」企画展

映画で河井継之助を演じた役所広司が、実際に羽織った陣羽織。その他にも映画関連のものが展示されています。

高橋英樹と役所広司が着用した衣装が同時に見られるのは今だけ!

1階、上り下り2つの階段、2階と、数多くの展示物が並ぶ中から、個人的に好きなものを展示物をいくつかピックアップします。

只見町河井継之助記念館 医者の巻物

1階からのチョイスはこちら、医者の巻物(五臓曼茶羅)。巻物はやはりロマンがある。何かな、これ、ツボの場所?

只見町河井継之助記念館 「峠」(新潮文庫)より

2階からのチョイスは、河井継之助が外山脩造に言った台詞と、河井継之助の最後の様子を描写している文が書かれたパネル。只見での様子を垣間見れる展示。

只見町河井継之助記念館 2階奥のお楽しみ

2階の司馬遼太郎と只見のコーナーと、直ぐ横の自動ドアから外に出て、記念碑や滝湖の景観、山塩資料館もお見逃しなく。

初代河井継之助記念館だった山塩資料館はこちらからご覧になれます。司馬遼太郎さんは昭和49年に只見に訪れておられるそうで、司馬遼太郎さんが滝湖の景観を眺められた時は、こちらの初代記念館の頃ですね。

只見町河井継之助記念館 山塩資料館

この辺りの地名、塩沢は、かつて山塩と呼ばれる製塩が行われていたことに由来があるそうです。

807年(大同2年)にこの地を訪れた弘法大師が、五十嵐さん宅を訪れた時、塩がなくて困っている話を聞いて、沢の横のあたりから塩水が出るようにして下さったそうです。

山塩に関する資料は全国的にも少なく、ここに展示されている製塩の様子を残そうと描かれた絵などは、極めて貴重なのだそう。必見!

只見町河井継之助記念館 只見町戊辰戦争史跡 見て歩きマップ

今、個人的に注目の、見て歩きマップがここ、下りの階段のところに! 

こちらについては、別のブログで近々ご案内しようと思います。

只見町河井継之助記念館 只見における河井継之助 最後の十二日間

そして忘れてはいけない、とっておきの資料が、河井継之助の只見滞在となる最後の十二日間を伝える「町史 とっておきの話 只見における河井継之助 最後の十二日間」です。その1からその6まであります。

町史 とっておきの話 只見における河井継之助 最後の十二日間
その1 吉ヶ平から八十里へ
その2 丹羽族と継之助
その3 藩士とその家族
その4 スネルと継之助
その5 松本良順と継之助
その6 只見から塩沢

義を貫き、武士として生きた河井継之助が守り抜こうとした人たちが、どのように只見に入り、滞在し、会津に向かったか、河井継之助が信念を貫けるように、どれだけの人や村が尽力し、最後の十二日間を支えたか。この最後の十二日間を、そのまま只見町河井継之助記念館の展示の目玉としても良いくらい、様々な場面、それぞれの視点から、生々しく当時の様子が語られていて、どんどん惹き込まれていきます。是非お手にとって、ご覧ください。

只見町継之助記念館の新館ができた頃は、まだ長岡に記念館はありませんでしたが、今なら、越後長岡 河井継之助記念館で、長岡での継之助に触れ、県境を越え、只見町河井継之助記念館で、只見での最後の十二日間に触れる。それぞれ独立した点としてよりも、継之助の生涯を一連の線で辿るように、2つの記念館を通して時間や空間の流れを体験できたらおもしろそうです。

県境を越える際には、是非只見線乗車にご協力を ^ ^

このとっておきの話や、只見町戊辰戦争史跡 見て歩きマップが掲載されている「只見町戊辰戦争史跡めぐり」にもあるように、只見には、継之助と前後して八十里越を越え会津若松に向かった、長岡の藩主や藩士とその家族を含め、戊辰戦争に関わる数々の物語や史跡があります。各所史跡も含め、只見町全体で河井継之助の物語をお楽しみください。

塩竈神社

只見町河井継之助記念館から、塩沢川を渡り、対岸の道を進むと、塩竈神社があります。

社伝によると、文政年間で江戸後期の創建なのだとか。以前訪れた時は、ちょうど鳥居を新しくしているタイミングでした。付近の写真を撮りたかったのですが、今回はアブがひどくて断念しました。

十島ビューポイント

河井継之助記念館のある塩沢地区から、今度は只見川に掛かる十島橋を渡り、只見川の対岸となる十島地区にビューポイントがありました。塩沢地区に入ると、案内の看板がいくつかあるので分かると思います。

もう直ぐここから、塩沢地区をバックに只見線の列車が進む景色を楽しむことができるようになります。

今年も残念ながら8月16日の墓前祭には参加できませんでしたが、過去の様子は各ブログよりお楽しみください。


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